球聖を支えた「カラミティ・ジェーン」
セント アンドリュースの古いショップを歩いていると、最新モデルのクラブが並ぶショーウィンドウの隣に、今でもヒッコリーシャフトのクラブが静かに置かれていることがあります。磨かれた鉄のヘッド。頼りない木製シャフト。その中に、ときどき目にする名前があります。「Calamity Jane(カラミティ・ジェーン)」。ボビー・ジョーンズが生涯愛した、伝説のパターのレプリカです。
聖地での挫折と、海を渡った職人の魂
ボビー・ジョーンズとカラミティ・ジェーンの出会いは1923年とされていますが、物語は、1921年のセント アンドリュースでスタートしていたのかもしれません。オールドコースで開催された全英オープン。当時19歳のジョーンズは、11番ホールで大叩きし、激昂のあまりスコアカードを破り捨てて競技を棄権しました。後に彼が「最も恥ずべき瞬間」と回想する、この時、彼はまだ、カラミティ・ジェーンを手にしていませんでした。
しかし、ジョーンズが挫折を味わったその街で、一人の職人が鍛え上げたパターヘッドが、後に彼の生涯の相棒となることになります。伝説的クラブ職人、ロバート・コンディ。彼の手によって薔薇の刻印を授けられたパターヘッドは、プロゴルファーのジム・メイデンの手を経て米国へと運ばれました。
メイデンはこの一本に「カラミティ・ジェーン」という名を授けました。由来は、西部開拓時代の凄腕女性ガンマン。彼女の銃が標的を外さないように、このパターもまた狙いを外さないーー。そんなウィットと敬意を込めた命名でした。
1923年、全米オープンでの覚醒と聖地への帰還
1923年、パッティングのスランプに陥っていたジョーンズに、メイデンは愛用していたパターを託します。ゴルフの聖地が生んだ職人の技が、アメリカの若き天才の手へと渡った瞬間でした。
効果は劇的でした。このパターを手にして臨んだ同年の全米オープン、ジョーンズは念願のメジャー初制覇を成し遂げます。ここから「球聖」としての快進撃が始まり、このパターは彼の体の一部となっていきました。
やがて初代の「ジェーン I」が摩耗すると、1926年には、その形状を忠実に再現したレプリカ「ジェーン II」が製作されました。1930年の年間グランドスラムを支えたのは、この二代目でした。
このパターを相棒にしたことで、ジョーンズはかつて敗れたセントアンドリュースで躍進を果たします。1927年の全英オープン、そして1930年の全英アマ。彼はカラミティ・ジェーンを携えて再び聖地に立ち、かつてカードを破り捨てた場所を、地元の人々から熱狂的に愛される栄光の舞台へと塗り替えました。
聖地の工房からアメリカの展示室へ
カラミティ・ジェーンの物語が美しいのは、一本のクラブが、ゴルフ発祥の地セントアンドリュースの工房から、大西洋を越え、やがてマスターズを創設するボビー・ジョーンズ、つまりアメリカゴルフ史の象徴へと繋がっていくところだと思います。
セントアンドリュースの街には、最新のクラブの横に、ヒッコリーシャフトのクラブが並ぶ風景がよく見られます。また「セントアンドリュース・ゴルフ・カンパニー」の工房を訪ねれば、今なお手作業で仕上げられる「カラミティ・ジェーン」の公式レプリカに出会うことができます。
そしていつか、オーガスタ・ナショナルGCや、ニュージャージー州のUSGAミュージアムを訪れることがあれば、そこにはカラミティ・ジェーンの実物が展示されています。きっと「戦友」として扱った球聖の体温を感じることができるでしょう。
旅のバッグに15本目のクラブを
旅に出る際は、私たちは自分の分身となる14本の厳選されたゴルフクラブをバッグに入れて出かけます。けれど、セントアンドリュースの街角で、あるいは旅先の小さなプロショップで、ふと手に馴染む一本に出会うことがあります。それは必ずしも、最新テクノロジーを搭載したクラブではないかもしれません。しかし、その一本には、ゴルファーの物語が宿っています。
旅先で偶然出会う、15本目のクラブ。そんな一本に出会えることもまた、ゴルフ旅の魅力なのかもしれません。